「授業中、ぼんやりしている」「最近、疲れているように見える」「よく遅刻するようになった」。そんな子どもの様子の奥に、“ヤングケアラー”という存在が隠れていることがあります。家族のケアを当たり前のように引き受ける子どもたち。彼らが抱えている苦しさに、私たちはもっと敏感になる必要があります。
子どもが「家庭の支え手」になるということ

遊ぶ時間も、
友達との関係も置き去りに
ヤングケアラーとは、家族の介護や世話を日常的に担っている18歳未満の子どもたちのことです。小学生や中学生にも存在しており、認知症の祖父の見守り、病気の親の薬管理、障害をもつきょうだいの介助など、日々のケアを背負っています。
それは“手伝い”ではなく、責任を伴う日常です。子どもらしい時間や人間関係よりも、家庭の中での役割が優先されてしまう。その状況は、成長や学びにも大きな影響を及ぼします。
なぜ気づかれにくいのか

「家庭の中のことは
話してはいけない」という壁
ヤングケアラーの存在が見えづらい理由のひとつに、「家庭のことは他人に話すものではない」という無言の圧力があります。
親を守るために、先生や友達にも言えない。そもそも支援制度の存在を知らないまま過ごしているケースも少なくありません。困難が重なっていても、声をあげることができずにいる子どもたちが多くいます。
見過ごされやすい“あたりまえの願い”

「もっと遊びたい」も言えないまま
ヤングケアラーの多くは「自分がやらなきゃ」と思いながら、日々のケアに向き合っています。家族を助けたいという思いが強いため、自分のことを後回しにしてしまいがちです。しかしその一方で、「本当はもっと自由に遊びたい」「勉強に集中したい」「友達と過ごす時間がほしい」といった気持ちも、心の奥に潜んでいます。
その葛藤が続けば、無力感や自尊心の低下、将来への不安など、精神的な負担にもつながってしまいます。
学校では見えにくい苦しさ

その“遅刻”には
理由があるかもしれない
学校では、ヤングケアラーの苦しさは見えづらく、遅刻や忘れ物、無気力な態度などが「怠けている」と誤解されてしまうこともあります。
でも実際には、
・朝の介護を終えて登校している
・夜遅くまで家事をしている
・精神的に追い詰められている
そんな背景がある場合も少なくありません。「家庭の問題」として片づけられてしまえば、子どもの声は社会に届かないままになってしまいます。
気づきから始まる支援のかたち

小さなサインを見逃さないために
支援の第一歩は、「気づいて、声をかけること」です。ヤングケアラーが自ら「助けて」と言えるとは限りません。
学校や地域、行政がつながりを持ち、以下のような連携が必要です。
・先生のまなざしと声かけ
・スクールカウンセラーやソーシャルワーカーとの連携
・ケアラーカフェなど安心して話せる場の整備
「あなたは悪くないよ」「ひとりじゃないよ」と伝えること。それだけでも、心がほどけていくことがあります。
“責任感の偏り”に気づける社会へ

ケアの重さを、社会
で分かち合えるように
家族のケアは、本来、子どもひとりが背負うものではありません。ケアする人がいないから子どもが代わりに…という構造を、社会が見て見ぬふりをしてはいけないはずです。
その“責任感”や“やさしさ”を否定するのではなく、「その重さを一緒に背負える社会」を目指すことが、今の時代に求められています。
小さな違和感が、未来を変える

「あの子、少し頑張りすぎてないかな」
ヤングケアラーという言葉を知らなくても、「あの子、いつも疲れているな」「ちょっと無理しているかも」と感じることがあります。
その小さな違和感に気づき、寄り添うことが、支援のきっかけになります。制度や仕組みももちろん大切ですが、「見守るまなざし」こそが、社会の空気を変える力を持っています。
ヤングケアラーとビジネスケアラーの共通点

立場が違っても、
「孤独感」はよく似ている
最近では、働きながら介護をする“ビジネスケアラー”にも注目が集まっています。年齢も立場も異なりますが、共通しているのは「誰にも頼れない」「わかってもらえない」という孤独です。
ビジネスケアラーには、制度にアクセスする手段がありますが、それでも「申し訳なさ」や「やるせなさ」は残ります。ヤングケアラーには、そもそも自分が支援の対象だという認識すらないことが多く、孤立が深まりやすいという違いはあります。
「助けて」とまだ言えない子どもたちのために

見えない場所に目を向ける社会へ
ヤングケアラーへの支援は、制度としても意識としても、まだ遅れたままです。「助けを求めることすらできない段階」で立ち止まっている子どもたちが、今もいます。
その存在に気づけないままでは、苦しみは見えないところで深まっていきます。
目をそらさず、光が届いていない場所へまなざしを向けること。
それは社会が本気で変わるための一歩であり、子どもたちの未来を守る責任でもあるはずです。




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